2013年10月4日金曜日

この世界にて最も蔑まれるべき悪徳

串カツです。
チャリで片道30分(当社比)な通学路を常用していますが、大小様々な幾つもの道と交差し、その内には朝晩は交通量のほとんどない道との交差点もあります。
「なんでこんなところに信号が付いてるんだ」とぼやきたくなるようなものもあるのですが、得てしてイライラは重なるもので、合法・違法問わず信号を突破しようと試みるうち結構な割合で、許しがたき愚行を目撃するわけです。


律儀に赤信号を守っていたくせに、誰かが無視するのを目撃すると急に考えを変えて我先にと赤信号を渡り始める愚民共


許しがたいですね。何が悪いって、自身の価値観・行動原理がこんなに簡単に他人に影響されるような薄っぺらい人間が、いかにも「私は遵法精神旺盛な模範的市民ですよ」と言いたげに信号を守ってるかと思えば、突然「先に渡った奴が悪い」という思考回路に切り替わる、こんなのが相手ではおよそ法律などお説教以上の力は及ぼしえないでしょう。
まず、「自身に直接関係ない他者の行為が法より優先的な判断基準となりうる」というのが最低ですね。他人の後に続いて赤信号を渡るというのは、他者の悪行は自身の同罪の(少なくとも精神的な)免罪符たりうるという考えによるものです。
暴動のさなかであれば、どさくさ紛れに関係のない人間をボコボコにしても良いのでしょうか。通り魔を目撃すれば自身も人を刺すことが許されるとでも思っているのでしょうか。
程度の問題こそあれ本質的に同じことですし、そもそも悪の程度はここでの議論で問題としていません。
悪行そのものを問題にしているわけではないのです。法律なんて、場所や時代によって大きく違うものですし、そこに人間としての絶対的な評価を持ち出すのはナンセンスです。(宗教関係なんてその最たる例でしょう。)

真に問題なのは、奴らが自身の中にある程度まとまった善悪の観念や行動原理を持ち合わせていないということです。
たとえ違法でも自らの信念に従って行動し、民衆や世界から賞賛される人間は沢山あります(例えば人権運動家など)。一方、それが悪として裁かれる人もまた少なくありません(戦犯やテロリストなど?)。
しかし、彼/彼女らの行為は本質的に「法より自らの信念が優先される」という点において同一です。実際、善悪の評価が時代と共に入れ替わった人も枚挙に暇がありません。一方で、「信念より法が優先される」という価値観は一般的な法治国家で望まれる市民の在り方ですし、そうある人々はそうでない人々より圧倒的な多数でしょう。
しかし俺は、このどちらもまたある観点からは本質的に同じだと考えます。それは、「自身の行動に合理性を見出だしていること」です。理屈を付けられるという次元ではなく、はじめから持っている理屈に沿って行動を選択できるということです。しかし、他者に続いて赤信号を渡る輩にはそういった行動の核がない。

周囲の人間の猿真似をするだけなら、群れで空を飛ぶ鳥にだって、群れて川を泳ぐ小魚にだってできることです。コンピュータなら、5分もかけずに理解できる程度の簡単なプログラムで再現できてしまう程度の稚拙な振る舞いです。
他者の言動のみによって決定されない自身の価値観があるからこそ人間としての意思決定に尊さが認められるのであって、ピンセットでつまめる程度のサイズの脳と同じことしかできないような腐った肉塊の、一体どこに知性が宿っているなどと言えるのでしょう。
奴らはヒト未満です。自分の行動も自分で決められないようなら人間名乗るのをやめてしまえ。

我々はそういった愚かで矮小な存在になりたくない。いや、なってはいけない。
自身の言動を自ら決定しその責任を負うことができる、それこそ人間の知的生命たる所以であり、人間の尊さの根源であるのではないでしょうか。ならば我々は自らの価値を賭けてこれを体現するまでです。


というわけで、俺はこれからも一番乗りで赤信号を突き進み続ける一番星でありたいと思います。
そして運悪く警官に咎められた暁には、素直に叱られ、或いは罰を受ける覚悟です。

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