2012年8月7日火曜日

あまりに本文が長すぎるのでタイトルくらいは短く、と思っていたところ本文を畳めばよいと閃いて試してみたものの、それでもやはり長かったのでどうしようかとタイトルで愚痴っている次第でございまして、まあそんなことする暇があれば本文を削れよと

--> 注意:ちょっと長すぎたので、文字を小さくして、折り畳みました(PC版のみ)。 PCの方はこちらをご覧ください。 大きくするならここをクリックしてください。 あと、太字のテーマをクリックすると本文が展開されます。全て読む覚悟があるならここをクリックしてください。 ほんとごめんなさいm(_ _)m
串カツです。 いや、俺が串カツなわけではなくて、俺は串カツと呼ばれている人間であるという簡潔な自己紹介かつ主張です。 そういえば「人間」って何なんでしょうね。中学2年生の頃、昼食でこの話をしたら「目と耳と鼻と口が付いてればいい」なんて言った人がいましたが、電柱に目と耳と鼻と口が発生したらそれは人間なのでしょうか。あるいは、これらの1つでも欠けている人は人間ではないのでしょうか。 そして、今まで自分を当たり前に人間だと思って生きてきた彼ら・彼女らは、何をもって自分が人間だと確信しているのでしょうか。 この投稿ではその答えは書きません。 代わりに、今まで「当たり前」だと思っていたこと、すなわち「常識」(悪い意味)や「固定観念」が音を立てて崩れていくような知識や事柄を紹介しましょう。 考えることをやめたとき、ヒトは思考停止し、常識や固定観念に囚われてしまうのです。 それを打ち破るには、未知の事象や概念に触れるのが最も手っ取り早いと思われます。

ツングース爆発

強烈な空振(air burst)が発生し、半径約30キロメートルにわたって森林が炎上し、約2,150平方キロメートルの範囲の樹木がなぎ倒された。1,000キロメートル離れた家の窓ガラスも割れたという。破壊力はTNT火薬にして10-15メガトンと考えられている。爆発によって生じたキノコ雲は数百キロメートル離れた場所からも観測できた。イルクーツクでは、衝撃による地震が観測されたという。爆発地点では地球表面にはほとんど存在しない元素のイリジウムが検出されている。
要は、昔広島の原爆の1000倍近い威力の爆発が起きて、何故か犠牲者はいないようで、未だに原因は不明であるというとんでもない事件です。 原因については結構様々な説が出ていますが、どれも何かを説明しきれないといった状況で、まだ完全な説明は見当も付かないようです。 最先端の科学が云々とか歴史がどうとかいう話ではなく、わりと近代の大規模な事象で、それなりの調査が行われていながら、真相が全くつかめないようなことがあるのだというのは、まだまだ人類も未熟なのでしょうか。 これがオカルトに入るのかは知りませんが、いずれにしろロマンのある話です。

λ(ラムダ)算法、SKIコンビネータ

ラムダ計算は計算可能な全ての関数を表現することができる。
上記で引用したものはλの凄さを伝えるには不十分です。 λ抽象(関数みたいなもん)で、私達が作り得るデータの全てが表現できる(はず)です。 λを用いて自然数が表せますし、ここからいろいろな数を定義できます。 λでリスト、つまり数値や関数の列を作ることもできます。 そしてλは「関数」を定義しなおしたようなもので、λで表せるあらゆるモノを処理できます。 また、λを使った表現は割と慣れるまで大変ですが、これをさらに「S,K,I,(,)」の5種類の文字だけで表現してしまうことすらできます。 現在では「`,s,k」の3種類のみで、さらに「*,i」の2種類のみでも表現できるなどと、もはや何を覚えるのを面倒がればここまで文字が減るのか、というくらいまでになっています。 例えば数列、例えば画像、例えば微積分、例えば分子の構造、例えばプログラム…全てがλで表せ、処理できるのです。 しかもこの「処理する」というのがまた凄いもので、複雑な計算などは一切ありません。 単に「規則に従って、ある文字をある文字列で置き換える」という機械的な作業だけで「計算可能な全て」を計算できてしまうのです。 こんなこと、自分が何をしているか理解しなくても、小学生にだって簡単に実行できてしまいます。 まあ実際のところ、こういう単純かつ単調な作業はコンピュータの方が向いていて、実際これを基礎として作られた言語はそれなりにあります。世に言う「関数型言語」というものです(プログラミングを嗜む人は知っているかもしれません)。 ということで、「全てはλ(関数)である」などという主張をする人々も多く見受けられます。俺もその一人です。 同種の思想に「全てはNANDである」「全ては集合である」「全ては波動である」などというものもありますが、それぞれ見事なもので、本当に全てはそれらで表せてしまうのですが、ここでは紹介だけにとめておきます。

クオリア

クオリアとは「感じ」のことである
リンク先を見ればわかりますが。 皆さんは「赤く見える」というのがどのようなことか考えたことはありますか? たとえば昆虫の多くは紫外線が見えるようですが、皆さんには見えませんよね?(というか人間に視えないことが紫外線であることの必要条件っぽいですが) では、一体「紫外線が視える」というのはどういう感じなのでしょうか。 あるいは皆さんは鳩などとは違って、意識して地磁気を感知することができませんが、「地磁気を感じる」とはどういう感覚なのでしょう。 これらの疑問は、「脳細胞を物質が移動して云々」といった私達の知る「科学」では答えを出すことはできないように思われます。 この疑問を考察すべく、「感じ」に名前を与えて議論の場に持って来られるようにしたもの、それがクオリアです。 これという唯一の正解は無いのかもしれませんが、考えるだけでもワクワクする話題です。

中国語の部屋、哲学的ゾンビ

彼は全く漢字が読めず、作業の意味を全く理解しないまま、ただマニュアルどおりの作業を繰り返しているだけである。それでも部屋の外部から見ると、中国語による対話が成立している。
哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に楽しさの「ウキウキ」とした感覚も、怒りの「ムカーッ」とした感覚も、議論の厄介さに対する「イライラ」とした感覚も、意識(クオリア)というものが全くない、という点である。ただの物理的化学的電気的反応の集合体である。
クオリアの話題とも繋がってくるのですが、リンク先を見てもらった方が早いですね。 簡単に(少し不正確に)言えば、「中国語の部屋」とは「言葉を理解してなくても、入力(聞く言葉)と出力(返す言葉)の対応さえ知識として知っていれば、それはもう理解したことと同じだよね」ということです。 あなたがチャットやメールやSNSで対話していると思っているその相手、プログラム(人工知能)ではなく人間だと、その対話手段(メールやいろいろ)だけでどうして断言できましょうか? 相手が自分の発する言葉を「理解」している保証などないのです。 「哲学的ゾンビ」とは、物質的には人間と全く同じで、振舞いも全く人間のようで、唯一「意識」(クオリア、感情とか諸々)を持っていないような架空の存在です。 いや、本物の人間とは絶対に区別できないので、架空とはいっても存在していないことの証明はできないんですけどね(悪魔の証明的な意味ではなく)。 私達が相手の意識を「感情」を通して察するとき声や体の特徴(表情、その変化、仕草、etc...)など物理的な現象のみから情報を得ている以上、逆に物理的な現象のみを模倣すれば自意識を持たない存在にも「感情」を表現できてしまうことになりますね。 さて、「意識」というものは本当にこの世に存在するのでしょうか。 …などという話題です。これを用いた主張や反論はどれも一理あるもので、なかなか興味深いものです。 また、私達が「人間である」とはどういうことなのか考えさせられます。

P≠NP問題

仮にP≠NP予想が否定された場合(P=NPの場合)、素因数分解などが多項式時間で計算可能であることになり、これらの暗号の安全性は根底から覆ることになる。
この問題、クレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題なので、解決したら100万ドルの懸賞金がもらえます。 他のミレニアム問題には、ポアンカレ予想(解決済)やリーマン予想など、どこかで聞いたことがあるようなものもあります。 で、まあ一般的にはこれらは「数学」の問題なのですが、P≠NP問題は他のものとはちょっと性質が違うのです。 簡単かつ不正確に説明すると、現在では「効率の良い」解き方が発見されていない問題は本当に「効率の良い」解き方が存在しないのか?あるいは、全ての問題には「効率の良い」解法が存在するのに、単に発見されていないだけなのか?という問題です。 たとえば「巡回セールスマン問題」(最小コストで目標の経由地を全て辿るにはどの経路を使うべきか、という問題)や、現代の暗号の土台にある「素因数分解の難しさ(かかる時間)」など、かなり身近なところにある問題にも関わりがあります。 「効率の良い」解き方、というのはちょっとわかりにくいですが、たとえば「データの大きさがn倍になると、問題を解くのにかかる時間はだいたいlog(n)倍とかnのp乗倍になる」(pは実数の定数)などというものがここで言う「効率が良い」ということです。 逆に、pのn乗倍(p>1)とか、nのn乗倍とか、n!(nの階乗)倍とか、そういうものは「効率の悪い」解法とされています。 たとえばあなたが暗号を解読したいとしましょう。その解読方法が「暗号化の鍵の長さがn倍になると、解読にかかる時間はnの10乗倍になる」というのと「鍵の長さがn倍になると、解読にかかる時間は2のn乗倍になる」というの、どちらが嬉しいですか? 相手があなたによる解読を恐れて鍵長を128倍にしたとしましょう。前者の解法だと、これまでの約1000000000000000000000(2の70乗=約10の21乗)倍で済みますが、後者だと2の128乗(およそ10の38乗)倍になってしまいます。後者では前者よりさらに100京倍の時間がかかってしまうのです。 最近の(といっても結構昔のですが)暗号に関しては「宇宙が終わるまで計算しても云々…」などという言葉をよく聞きますが、これは「鍵をちょっと長くするだけで、解読(する際に必要となる巨数の素因数分解)が実際には処理できないくらいの計算量に膨れあがる」という特性を根拠にした言葉なのです。 それがもしP=NPだと証明されてしまえば、これらの暗号の安全性の根拠となっていた「素因数分解の効率が悪い」というのが崩れ、現代において使用されているほとんどの暗号は(公開鍵暗号に限らず)役に立たなくなってしまうかもしれません。 そうなれば秘密の通信などは、政府や軍にしか使えないとんでもないコストのかかるものや、まだまだ実用化には遠いようなものに頼らざるをえなくなってしまいます。 このように、数学の問題といってももはや私達の生活と密接に関わりのある問題であり、単に学問だけの話ではなくなっています。 しかも効率などを考えるのはどちらかというと、数学より情報科学とかコンピュータ寄りの話に思えますが、これが数学の最大級の未解決問題の1つとして挙げられているというのは不思議なものです。

「人が聞いていない時、森の木は倒れる時に音を発するか?」、観念論

存在するということは知覚されるということである
我思う、ゆえに我あり
ルネ・デカルト
なんとも極論っぽい話ですが、頭ごなしに否定する前にちょっと考えてみましょう。 まず、あなたが幻覚・幻聴その他もろもろに悩まされるとします。(なんかイケナイお薬をするとそうなると、いろんな所で言われていますね。俺はやったことがないので知りませんが) あなたの前に人がいます。幻覚でしょうか。彼が話しかけてきました。幻聴でしょうか。 彼が包丁であなたを刺します。痛いでしょうが、実はそれも幻、偽の感覚です。 …さて今度は、これらは本当に幻だったのか?という話を考えてみます。 上で述べたようなことが起きたとして、それは実際に人に刺されたのと何が違うのでしょうか? たしかに幻ならば目の前にはヒトを構成する分子が無いかもしれませんが、それはあなたには確認できません。 なぜなら、分子があって実際にヒトがいたときと、分子がなくて幻であったとき、同じことが起きた以上はそれらの区別は(あなたには)全くできないからです。 さて、そばにいた友人があなたに「そんな人いない、幻だ」と言ったとしましょう。 本当でしょうか?その友人すら、あなたの脳が勝手に生みだした幻ではないと、どうして証明できましょうか。 自分の体にすら同じことが言えます。あなたは自分の体が実在するつもりでいますが、実は脳だけが保管され生きた状態で、夢(つまり幻)を見て、あるはずのない感覚を感じているだけではないと、なぜ確信できるのでしょうか… つまるところ、自分の「意識」以外の全ての「実在」は、証明することができないし、逆に自分がこうして「考えている」ことこそが、自身の「意識」が存在することの証拠なのです。 これを「我思う、ゆえに我あり」と表現したのがデカルトです。なかなか見事な表現だと思いませんか? 逆に、「実在」とは何なのか?と問いなおすことも有効です。 私達は、幻として見えるものは「実在」すると言えない、と勝手に思いこんでいますが、本当にそうなのか? この疑問をつきつめていくと、「自分が認識したものこそが「存在」するのだ」という、ある意味自己中心的(先のデカルトの言葉もですね)な結論に辿り着きます。 こうして考えていった結果の例のひとつが、哲学者ジョージ・バークリーによる『人知原理論』です(残念ながら?彼は聖職者であったので最後には「神」を持ちだして結論づけてしまったようですが)。 上の考察を踏まえて、でもうひとつの主題、「人が聞いていない時、森の木は倒れる時に音を発するか?」という問題です。これが意外とおもしろい。 まず、誰も聞いていないなか、森の木が1本倒れたとしましょう。 上の文章を読む前の皆さんの多くは、「音が出たにきまっている」と思っていたことでしょう。 しかしそもそも、誰も聞いていない、すなわちあなたが認識していない「木」と「木の発する音」は存在していたのでしょうか? あなたが認識していない木や音はそもそも「存在」していないことと同義で、よって音は発せられなかった、というのが1つの答えです。 これを真理として受け入れられるかどうかは別としても、この答えには一理ありますし、論理的にも間違った点は見付からないようです。 突然このような謎の問題を出されるとバカにされたような気分だったかもしれませんが、少しずつ考察を深めていけば、このように「当たり前」のことほど本質をつかむのは難しく、それらを疑うことができることこそが知的生命体のアイデンティティでもあるのだ、と感じられます。
どうも偏ってしまっていけませんね…… 本当はもっとエントロピーとかマクスウェルの悪魔とかシュレディンガーの猫みたいな概念も紹介したかったんですが、現時点で学級のブログに書くことが許されないような長文になってしまっていますorz 全ては偶然だとか、現実世界には「アナログ」は存在せず、時間、空間、エネルギー、ありとあらゆるものはデジタルな値しか持たないだとか… でも今まで「当たり前」であった考え方を見直すには十分な刺激だったことでしょう。 興味が湧いたなら調べてみればいい。情報、話題は目をこらせば、そこらにゴロゴロしています。 科学や哲学ばかりになってしまいましたが、これらのうち3つでもマトモに調べて考察してみれば、これまでより数段上の柔軟かつ論理的な脳をつくれること請け合いです。 「考えること・学ぶことの楽しさ」というのはガッコウのオベンキョウにではなく、こういうことに対してこそ使う言葉なのではないかな、などと思う今日この頃でした。

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